この頃日記
昔せっせとアルバイト!!の巻
2020年も半分過ぎて、コロナ禍のことや、酷い水害のことや、大袈裟ですがなんだかもう一生分の世の中の困難を見せつけられた気にもなりますが・・・いやぁ、でも、頑張りましょう!負けないで頑張りましょう!そうしましょう!!ねっ!!頑張りましょう。
と言う訳で・・・。むかしむかし・・・。
ハイ。今から45年~46年前ですよね。
1974年から1975年あたりの坂田おさむ「坂田修」ソロデビュー前。
22~23歳だもん。記憶は若干行ったり来たりしております。
歌のおにいさんになる約10年前だも~ん。
あやふやふやふや。
だってあなた、45年前あたりの記憶ってすぐにでます?・・・って威張ってるわけじゃありませんのでございます。
世の中的には、新幹線が東京~博多まで通ったり、ベトナム戦争が終わったり、およげ!たいやきくんが流行った頃かしら。
何?み~んな知らないのぉ?あ~あ。ん~も~知らないっと!!・・・・でも、ついてきてね。
そうです。
ロックバンド「宿屋の飯盛り」を脱退したあとは・・そんなすぐにはソロデビューできるわけもなく・・・。
アルバイトもちょこちょこと・・。
今日はその話ね。
交通量調査のアルバイトって知ってます?これって日払い可なんだよね。車は多いし外の空気も悪いところだったけど、でも気楽だったかも。
こう言うバイト今はもうあんまり見かけないかしらん。
交差点やら、信号機の近く、道の途中あたりで、パイプ椅子にすわって孤独そうに何やら手に金属製の計算器みたいなの持ってカチャカチャやってる人・・・。そ、人の流れやら、車の流れを調査カウントするんですよ。でも結局あれって何になるんだろ~ね。謎だった。
ところで谷啓(たにけい)さんって方ご存知?
ギャグのスーパーグループ、クレージーキャッツ(いかりや長介&ドリフターズのず~~っとずっと先輩)の一員ね。
NHK教育テレビでは「がんこちゃん」の声なんてのもやってらした。
あれはたしか高井戸の高速道路の入り口?だったかなぁ、交通量調査アルバイトしてる時でした。
車に乗った谷啓さん(多分高級外車だったと思うよ)が、車の窓をゆっくりあけて「何してるの?」って僕に聞いてきたんですよ。
子どもの頃から大好きだったあのクレージーキャッツの、あの谷啓さんがだよっ!!
あ~谷啓さんだああああ・・・。芸能人から声を掛けられるなんて~。(驚)
「ハ、ハイ。交通量調査でございます(汗)」って緊張して答えたら「ご苦労様だね。これ食べなよ」って、チューインガムを僕にくれたんだ!!おおおお。
本当は「ガチョ~~ン」とか「ビロ~~ン」って言ってほしかったけど。(笑)
あ、ガチョ~~ンって昔、谷啓さんが流行らせた流行語ね。
いまだったら何って言えばいいのかなぁ。
吉本新喜劇あたりの、ぼけたら全員でコケるかんじでしょうか。
「ガチョ~~ン!」って言った後、周りのみんなが総動員でコケるのが本当に好きだった~~。
その方がこの私にガムをくれたんです。(大喜)どんなに嬉しかったことか。
子どもの頃毎週日曜の夕方、欠かさず見ていたクレージーキャッツが出演する「シャボン玉ホリディ」ってテレビ番組(今週のギャグはこうだったなんて毎回ノートに箇条書きに書いて喜んでました)の、あの人なんですぞ!!
ああ、あのバイトをやってて本当に良かった~~。
それからね、交通量調査ってのはあんまり人と話さなくても良い仕事だったしね。
車や人のカウントとかしながらずっと頭の中ではメロディを考えていたっけ・・・。
ただ、まだ、録音できる機材(スマホのボイスメモみたいなものとか)を持っていなかったので良いメロが浮かんだ時は必死に忘れないように、ずっとそのメロを歌いつづけてアパートに戻るまでが大変だった。(笑)
知りあいに会っても挨拶したらメロを忘れるかもしれないから絶対ガン無視。
あの頃は付き合いずらい、嫌な坂田君だったと思う。
や~な奴だったぜ。(笑)
さ~て、次回は・・・。
断捨離完了。日記とは関係ないんだけど。自粛日々の写真だね。
これらギター捨てたわけじゃなく、部屋の中で断捨離中、寄せてあるだけね。紛らわしい事すんじゃないって!!
前回のこの頃日記はなんと昨年の秋2019年9月4日だったね。
あれから10か月かぁ・・・。(汗)それ以来って~・・。
いったい今のこの世界の状況(新型コロナ)を誰が予想したでありましょう。(いえだれも!)と、ま、そんな中、とある知り合いから、この頃日記をちゃんと続けてねと言われ、ハッと気が付き、まさにこう言う時だからこそ、日常を取り返そうと!!!決~~めたっと。
では、昨年9月以来のこの頃日記(昔話篇だけど)「すたあと」←ちょっと今、自分が関係してるEーテレ番組宣伝盛り込みました。番組も見てネ!・・・・では、すたあと。
1974年(昭和49年)あたりの坂田君(学校卒業したはいいけど~~時代)なんと今から46年前ですぞぃ・・・。(半世紀ちかし)歌のお兄さんの影も形もない頃の事・・・。
ロックバンド宿屋の飯盛(やどやのめしもり)を脱退(まさしく我がまま脱退だったね)したのはいいけれど、さて、自作の歌をどうやって売り込んだらいいのやら。
脱退したばかりのバンドの担当レコードディレクターに持ってくわけにもいかず、しゃあない、無い知恵を絞り、独立独歩。自分で電話することに。各レコード会社に営業活動の毎日さ。え~ぎょう??
あの頃、日本には16社くらいレコード会社ってあったんだよ。
「もしも~し、歌を聴いてほしいのですが?」
「はあ?」
「あの~ですから、歌を作ったので聴いてほしいのですが?そんでもって是非レコードをだしたく」
ガチャ!ツー・ツー・ツー。
(これ電話が切られた音ね。昔の電話はこんな音だぜぃ)
これを毎日繰り返すのですが、正しく埒が明かないとはこのこと・・・。
何か紹介がないとなかなかディレクターさんには会えないのよね。(涙)ディレクターさんて当時は偉かったんだよ。今もぉ?(笑)
何軒目かにポリドールレコードさん(今そんな名前の会社ないよね?)がなんとなくOKを・・・。
そ、な~んとなくだったね。(笑)まったくの偶然から。
キティっていう事務所さんのお知り合いが手助けしてくれたんだ。
(キティって井上陽水さんやら、当時忌野清志郎さんのRCサクセションとかがいた事務所だね)
何回かキティ事務所に通ってる間に、スタジオでデモ音源を作りましょうってなことになりました。
おお、やった~~~!!ホ~ントにあの時は嬉しかったなぁ。
デモ録りなので、スタジオで自分で演奏せよと。(そらそうだわな)打ち込みなんてない時代だよ。僕のギター一発弾き語りだけではイメージが伝わらないだろうとベースやピアノを入れなさいとディレクターさんからアドバイスを受けて・・。
スタジオに現れたのは来生(きすぎ)たかおさん(キティ)でした。はあ?
あの来生たかおさん?(シンガーソングライター、セカンドラブ中森明菜さんとか、セーラー服と機関銃とか~、ヒット曲いっぱいだね)そうデビュー前の来生たかおさんだった。
物凄く寡黙でシャイな人だったけど、お互いビートルズが好きと言うベースがあってスタジオでは楽しくデモ音源をつくりました。
東京は目黒大橋にあったポリドールレコードのでっかいスタジオでした。
嬉しかったなぁ~~。
まぁ、結局そこでは自分のソロデビューとまでは行かず、1曲シングルレコード盤に採用にされました。
アイドルの女の子のデビュー曲でした。
A面が来生さんの作品、B面が僕(坂田えいいち名の作詞)でした。
で、ちょっとしたこぼれ話・・・。
そのアイドル(?)女性は、後日、甲斐バンドの甲斐さんの奥さんになられました・・・。
作家として歌(この作品は作詞でしたが)を世に出せたことは嬉しかったけれど、やっぱり自分で作り自分で歌いたい僕でした・・・。
卒業はしたけど就職が決まってなく、同じ仲間と思っていた大学の友達は、真剣に就職活動に専念しだし、とうとう内定がどうしたこうしたとか言い出した。(汗)あせる坂田。
ないてい(内定)って何?
泣いていい???←おやじギャグすっね。
あ~あ。もう、知~らないっと。
さて、どうしたら良いのでしょ・・・坂田君の将来は????
続くぞ~~~~~。
次回も不定期ですが、なるべく早く書きますね~。
2020年半年終わるんだね・・・。すごい2020年だね。
今年の後半はどんな世界に??????
良くなっていくことを祈って・・・。
9月4日(水)
坂田おさむの過去振り返り話第4弾・・。
「卒業どうすんだぁ。就職どうすんだぁ」の巻
ロックバンド「宿屋の飯盛」には約1年半お世話になったかなぁ。
一応はコロムビアからシングルレコード2枚とLPレコード1枚出したんだよ。
しかしみなさんそもそもレコードってわかります?(笑)
レコード盤に針を乗せるとあら不思議。音が出るのですよ。(笑)
さて、バンドをやってるうちにとうとう卒業就職活動シーズンがやってまいりました。
北海道の父も母も、当然学生時代の楽しい思い出にするものと思っていた事でしょう。
普通に就職し、安泰(これもわかんないけどね)な人生を歩むであろうよと思っていたと思うな。
そんな頃バンドで北海道コンサートツアー約1月(ハイエースというレンタル車にアンプやらドラムやら機材を載せバンド全員乗り込んであの町この町大移動)をしたときも、宿泊代がなく、実家にバンドメンバー全員宿泊したりした時もそんな貧乏丸出しのバンドを見て、こんなのがプロで通用するわけないときっと思っていたことでしょう。(笑)
宿泊代がないのにツアー?そうです。ないです。キッパリ。泊まる金がないです。これって本当。
今では考えられないけれど、当時イベンターという組織だったものがあのころはまだちゃんとできていなかった時代でした。(特に北海道はね)
田舎の音楽好きの若者が会館を借りて、宣伝・切符を手売りするという、これまた超乱暴な考え方でした。宿泊先はその若者の実家とか、お寺・教会・公民館なのですわん。いわゆる雑魚寝。(笑)
考えてみりゃ車の中で寝た野宿的なこともあったし・・・。
ほとんど知名度も人気もないバンドがコンサートツアーをやるのは超無謀。こういう方法しかなかったとは思うけどね。
でもね、それだけ、音楽が本当に好きで是非コンサートをやってみたいと思う若者の純粋な気持ちは凄かった。今考えりゃかえって清々しいかもね。
そんな地方の音楽好き若者達が、今でいうコンサートのイベンターに育っていったんだと思います。
いつか、そのころのお話を小説にして出したいなぁと思っています。
さて、そんなわけで、ロックバンドの一員はいいんだけど(宿屋の飯盛はリーダーYさんの曲を歌うバンドでした)そろそろ自分の作品を世に出したいと思うようになってきた僕。ソロデビューしたいと真剣に考えるようになっていきます。
でもさ、就職どうするの?食べていけるの?はぁ?
知~らないよ~。あ~ら怖いこと。
さて、次回は・・・・。
坂田おさむの過去振り返り話第3弾・・。
「やっぱ売れないと厳しい~っ!!」の巻
1973年。大学3年。二十歳。初夏だった。セミプロ的ロックバンド「宿屋の飯盛」に入れてもらいました。(それにしても、物凄いネーミング。リーダーYさんが付けたらしいよ)
このバンドもコンテストで知り合ったんだ。
だってやっぱり、エレキギターを弾きたかったんだよ。
あの頃下宿で一人フォークギターを弾いてると、なんだか悲しくなったもんさ。(笑)
世の中的に四畳半フォークって流行りつつあった頃。「神田川」「赤ちょうちん」って歌知ってる?良い歌だけどメロディも歌詞もと~っても悲しかったんだよね。(笑)
僕は雇われ的なバンドメンバーだったけど、思っきりロックバンドでアンプを通してエレキを弾けるのは嬉しかったなぁ。エレキギター二人、ベース、ドラム(女性)、ピアノの5人編成。セミプロ的なバンドでした。そのうち、パーカッション・ボーカルという事でこれまた女性のIさんが参加。6人編成の大所帯に。そうね特徴は女性ドラムかな。
いつも問題になったのは、若干ドラムのリズムが走るのが難点ということで練習後のミーティングでは、激しくすったもんだしていました。そう学生の軽音クラブのノリと思っていただいて良いです。バンドをやったことがある人はわかるかもしれませんが、リズムが走るということはかなり致命的。それでも、当時、女性がドラムと言うのは珍しく、プロでデビューするにあたっては、なかなか良いのでは?ということでした。そのドラムの女性はとっても人間的に良い人でしたが・・・。(人間性とテクニックは関係ないけどね。)
なんせ、まだ、レコードデビュー前のセミプロ状態。メンバー全員みんな好き勝手に自分の音楽を主張したがるお年頃。毎回、練習中は結構な口喧嘩「下手くそ!」「なんだとぉ!」の超修羅場。(笑)それでも、時々、思うようなサウンドが出来た時はやっぱり嬉しかったもんです。とにかくお金がなくスタジオなんて借りられない(そもそもあの頃レンタルリハーサルスタジオってまだなかったのでは?)から、練習場所はリーダーYさんのご自宅の居間でした。大田区の御岳山。ここって超住宅街。
ご近所からはうるさがられてたと思いますよ。それでも、なんと次の年、日本最初の野外ロックコンサート、日本の「ウッドストック」って言われたワンステップフェスティバル(3DAYS)っていう大きな野外コンサートに出たんだよ。今の、フジロックフェス系の前身かな。
内田裕也さん、かまやつひろしさん、沢田研二さん、上田正樹さん、、オノヨーコさん、ミカバンドとか・・・そうそうたるロック系バンドが出てました。ただ、僕らはやっとデビューしたばかりの新米バンドだったから、リハーサル時間をほとんどもらえず、物凄く不利な音響状態でした。え?これで歌うの?演奏するの?野外なのに返しのスピーカーに自分の音がないけど?・・・・。
今でも覚えてるもん。そうとう悔しかったんだね。あ~ら可哀そね。(笑)たっぷりリハーサル時間をもらえる有名バンド。それに引き換え、舞台に上がってほとんどいきなりそのまま即演奏スタートしてねと言われる僕ら。うそでしょ!!この差別待遇。(ま、お弁当は同じだったけどさ)
この世界、「人気」や「力」をもたなくちゃだめなんだってことも嫌と言うほど味わったんだ。そう、とっても勉強になったよ。
さ~て次は、坂田君、このバンドを脱退していくお話を・・・・。
45周年を記念したライブも無事終了。
たくさんの皆様に祝ってもらって嬉しかったなぁ~。
本当にありがとう!!
前回のこの頃日記では、ロックバンド「宿屋の飯盛」に入れてもらうまでを書いたかな。
実はその前、ちょっとだけ、(1年くらい)コンテストで知り合った
フォークバンドに入れてもらったことがあるんだよ。へぇ~。(笑)
プロデビューはできなかたけど、自費制作のレコードは作ったんだよ。(僕はお金出してないけど。だってお金ないも~ん。)
女性ボーカルにバック伴奏の男性二人的な。
そうだね、今だと、「いきものがかり」的かな。
しゃあない、フォークギターを買ったさ。(YAMAKIっていうメーカー。安いけどいい音だったと思う。)
だって、それまで、フォークギターちゃんと弾いたことなかったからね。
僕のギターはセミアコのエレキギターで、アンプを通さなくても音は聞こえるんだよ。
ま、そんな完全エレキ・ギター少年でした。
今でも、F・ギターの弾き方が変だよってよく言われるんだ。
サムピックをたたきつけるような弾き方は、実に変かも。フィンガーは今でも苦手だし。
そして、ちゃんとは覚えてないけれど、3人で新宿に前衛的なお芝居と歌の生演奏を見に行って(当時流行ってたんだ。黒テントとか赤テントとか)、そこで演奏していた小室等さんに会えたことがあるよ。
帰りがけにお見かけしてお話をさせてもらったんだ。(立ち話的)
有名人だからすっごく緊張したっけ。あの頃は六文銭にいたのでは?
「フォークギターうまくなる方法ってありますか?」って聞いたら
「歌は作るの?」ってたしか聞かれて、なんとなく「ハイ」と答えたら、笑いながら、「ギター上手くなることより、沢山歌を聴くことのほうが今は大事じゃない?ギターは弾いてるうちになんとかなるしさ」と、こともなげに、するっと言われたんだよ。
赤い鳥の新井潤子さんと同じようなことをね・・・。
歌を作るために歌を聴く?・・・・。
そう言われて、やっぱりそれまでの僕の歌に対するアプローチが偏っていたんだなぁと納得したんだ。
さっそくカセットテープ(大量安売り)を買ってきて、ラジカセからいろんな歌録音に励む毎日が続きましたとさ。(レコードは高くてよっぽどじゃないと買えなかったんだ)
その音質はまったく酷かったけど、そんなことより、歌が聴こえりゃいいんだも~ん。
音質にこだわる気持ちはまったくなく、今でもその癖が抜けず、レコーディングの最終トラックダウン(整音)とかは苦手かもね。(笑)
さて、次回はいよいよロックバンドに入るところからかな。
あ、学校は時々は行ってたからね。あはは。真面目でしょ~。(笑)
ロック界のサラリーマンを目指したかったんだ~。ガハハ。(笑)
梅雨に入り体調とか大丈夫ですか?
北海道生まれの僕にとっては、その昔、東京の大学に入学して初めて経験した6月の梅雨ってやつにはびっくりだったよ。(知ってるかもしれないけど北海道って梅雨はないからね)
本当に本当に毎日毎日雨が降るんだ~~。ジトジトと。
童謡の♪あめがふりますあめがふる~遊びに行きたし傘はなし・・・・の世界が本当にあるんだと実感したよ。
まだ東京の暮らしにも慣れていなくて、学校内の友達もそんなにいなくって・・・。
なんだか、雲におおわれた薄暗い都会の空を見ては、気持ちが落ち込んだものでした。
あの頃、思い切って?アルバイト(交通量調査だったと思う)して大学の生協購買部で、ラジカセ(この響きはもうわかんないでしょ?)を買ったんだよ。
これを頼りに、深夜放送とかFMラジオ音楽を録音したり、情報をいろいろと手にいれて、フォークのコンテストとかに出始めたんだよ。
あの頃、赤い鳥(フォークバンド。「翼をください」で有名ですね)の新井(山本)潤子さんにファンレターを出したら、なんと返事をもらったよ。
嬉しかったなぁ~。雲の上の人だと思っていたから、本当に感激だったよ。
僕は「一人ビートルズ」のような歌を作りたいといつも考えていたっけ。
「たくさんの歌をどんどん聴いて、自分の栄養にして下さいね」って書いてあったんだ。
単純な僕は聞かず嫌いだったクラシックも聴くようになったよ。(笑)
そのうち、コンテストで知り合ったロックバンドに入れてもらって歌うようになって行くんだけどね・・・。大学2年生の頃。1971~2年頃だね。
さて、この続きはまた~~。(笑)
打合せって言いながら、世間話は楽しかったなぁ・・・。(笑)
さてさて、今日は、全国的に気温が低めだとか。
毎日温度差が激しくって、皆様体調崩してませんか?
SNS等、このところ、人様のブログを読み感動すること多し。
僕も、ちゃんと、人に「何か」を伝える「努力」はやっぱり必要なのでは?と改めて思う今日この頃。
取り合えず、「この頃日記」だね。
頑張れ~~~!!おさちゃん!!←自分で言う。
NHK-キッズソング三昧生放送9時間、無事終了いたしました。
応援ありがとうございました。
たくさんのリクエスト本当にありがとうございました。リクエスト
全部にお答えできずゴメンナサイね。
生ライブも、楽しく歌えました。
頑張って下さった番組制作スタッフのみなさんには頭が下がる思いでした。
そして、生放送「今」歌っているこの声が、日本のどこかの誰かに?にそのまま届き、耳を傾けて下さっていると思うと、なんとも言えない充実感がありました。ライブはやっぱり良いです。
5月3日(金)
1959年だったと思います。僕はまだ、7歳。
旭川の外れ。大雪山のふもと。雪解けしたばかりの田舎にも
テレビの受像機(白黒画面)が少しづつ増えておりました。
「あの家にテレビが来たんでないかい」の噂がよく立って、すごいなぁ~、いいなぁ~とわたしら子どもの羨望の声。
テレビが「来る」って表現がぴったりの時代さ。(笑)
サンタクロースが来るみたいでしょ。(笑)
あ、まだね、テレビって高額なものだったんよ。
日本が高度経済成長期に入る前のお話だかんね。
皇太子さま(上皇になられました)のご成婚パレードを見ようと、あの日、大勢がテレビのある親戚の本家に集まっておりました。
親戚のおばちゃん達から「わ~~美智子様お綺麗だわぁ!」と大歓声があがりました。
そんなご成婚パレードをリアルタイムに見た記憶があります。
パレードを見ながら、なんだか誇らしいような、子供心になんだか、ワクワクしたことを覚えています。
そう、あれから、もう60年近い年が流れたのですね。
昭和、平成終わって、令和ですもの。
日常の事は変化してはいない のですが、新しい時代が幕開けした気持ちです。
誰かの心に寄り添い、少しでも心にのこる歌を作り歌いたいと、本当に本当に思う今日この頃でした。(おお、大人の発言ですなぁ~)
子どもの日のNHKキッズ三昧のラジオや、6月のライブハウスのソロライブ。(是非来てね)
今、ある目標に向かって、さあ、一歩一歩取り組もうっと!!
令和・・・・。うん。良い響きですね。
み~~んなに幸あれ!!
4月22日(月)
帯広のガラピコ公演、新シリーズスタートでした。お陰様で楽しく歌えました。ありがとうございました。
さて、この写真左上の自分の指が映ってしまっていますが、それには訳が・・・。
画面中央をよ~~くご覧下さい。何か小さな黒っぽいものが写ってますよ!
ハイ、エゾリス?であります。朝の散歩で帯広神社あたりで発見。
ちょろちょろと出現。大自然の中から出てくるのでやはり嬉しい。
まあ愛らしかったこと。
帰りの帯広空港までの途中の夕陽も、THE北海道でした。久々感動!!
さて大事なお知らせです。
6月23日(日)にライブハウスに出演することになりました。
江古田マーキーと言うところです。東京練馬区江古田にある老舗ライブハウス
(西武池袋線 江古田駅南口から歩いて3分)http://www.marquee-e.jp/
チケットはローソンチケットで5月5日(日)10時から発売されます。
ローソンチケットLコードは 74886 です。
なお4月28日(日)午後17時から店頭発売が先行であります。
マーキーの電話 03-3994-2948
純粋ライブハウスは8年ぶりかな・・。
気合入ってますよ。是非会いに来て下さいね。待ってます。
坂田おさむ 歌のお兄さんだけじゃない姿をごらんにいれましょう。(笑)